田園都市線を降りて、ラオスにやってきた
「良かったらラオスの仕事手伝ってくれない? 飛行機のチケット取ってあるから、1度遊びにおいで」
社会人になってから1年半の、ある夏のはじめのこと。
そろそろ仕事を変えようか悩んでいたときに、知り合いから予想もしていなかったお誘いがあった。
すでに飛行機のチケットを予約したなんてふつうだったらあり得ないこと。
けれど、前から興味のあった「広報」の仕事に携われると聞いて、私は2ヵ月後には仕事を辞めて思い切ってラオスに遊びに行ってみることにした。
…っていうと聞こえが良いかもしれないけど、実は同行する母と祖母が予約してくれた、ラオスの前に寄る“タイの良いホテル”が楽しみだったのが1番の理由だ。
あと象に乗ること。そして、船に乗ってナイトマーケットに行くこと。全部タイ。
それと毎朝毎晩田園都市線にぎゅうぎゅうに詰めこまれていた生活に、ちょっとだけ彩りもつけてみたかった。
早く帰りたかったラオス滞在
今まで海外は欧米にしか行ったことがなかったから、東南アジアって何なんだかよく分かっていなくて、食べ物とか衛生面とか心配なことが色々あった。
楽しみだったタイは私が思っていたよりもずっと発展していたけど、ラオスはこんな感じかぁという印象だった。
朝起きて、ホテルのカーテンを開けたときに飛び込んできた、ほこりっぽくて低い建物しかないあの光景はいまでも覚えている。
そこから2週間弱のラオス滞在がはじまった。
初日はざーざーぶりの雨の中、1日もかからずにできる市内観光をして、翌日に私が働く予定の事務所に連れて行ってもらった。
やっぱり建物はちょっと頼りなくて、自然災害がおきたら今にも壊れてしまいそうだった。
アリが机の上にたくさんいて、それから私のパソコンの上を横切って行った。
「トイレは綺麗な方だよ」って言われたけど、それでも東京の公衆トイレのような感じ。
あー早く帰りたいと、招待していただいたのにそんなことばかり考えていた。
ラオスにいる間は首都ビエンチャンにいただけでなく、地方を訪れたり、色んな人と交流したり、ナイトマーケットやマッサージに行ったり、意外と楽しい半分バカンスのような日々を過ごしていた。
念願の広報系の仕事もできた。ちゃんと自分の目でたしかめたことを文章にしたり、映像を制作したり。
こういうことをするのは学生時代からのあこがれだった。
掛け持ちしたライターのバイト、高校から大学まで続けていた映画サークル。全部がようやく、いや思ったよりも早めにつながってくれた。
それに、今まで行った国の中で、ごはんが1番美味しいという発見もした。
人も優しくて、道に迷っていたら近くにいる知らない人たちがみんな一緒になって教えてくれた。重いものを持っていたら誰かが手伝ってくれた。
電車がないから誰も急いでいない。
不便だからこそ、その分みんなで助け合ってゆったりと生きている素敵な国だった。
そしてあっという間の10日間が過ぎ、やっと日本に帰れることになった。
住めば都で後半はちょっと楽しかったし、ラオスの魅力も分かったけれど、事務所のスタッフとお別れの挨拶をするとき、もう本当にこれが最後なんだろうなと思った。
綺麗で安全な東京に戻れる。それだけが待ち遠しかった。
あと、うちで飼っているハムスターのそらくんと4匹のアカヒレに早く会いたかった。
恋しかった東京に戻ってこられたはずなのに…
帰りは行きと同じ、バンコク経由で成田空港について、それから成田スカイライナーで渋谷まで移動した。
渋谷は大学時代に毎日のように通っていた街だ。ファッションとか華やかな夜に興味があったわけじゃなくて、家から遠くないし、便利だからなんとなく好きだった。
電車もバスもタクシーもあってどんな場所にも簡単に行ける。それにご飯やお酒が美味しいお店がいっぱいある。
でもいざスカイライナーを降りて、そんなに大きくもないスーツケースをひきながらいつものバス停まで歩いていたら、なんだか急に心が寂しくなった。
もしも私がいまラオスにいたら、階段を上り下りするとき、誰かが声をかけてくれた。
もしも私がいまラオスにいたら、看板じゃなくて、人が道を教えてくれた。
もしも私がいまラオスにいたら、後ろの人から無言で急かされることもなかった。
もしも私がいまラオスにいたら…
あんなにずっと帰るのが待ち遠しかったのに、いざ着いてみたら「あー帰ってきちゃった」ってほんの少し、心のどこかで思った。
でも働くなら絶対に東京がいい。
だって、オフィスは綺麗なところが良いし、通勤も楽にしたいし、お給料もある程度もらいたいし。ただし田園都市線沿いじゃないところ。
あとは欲しいものはクリックだけで買えた方が便利だし、コンビニでおにぎりやからあげクンを買いたいし、服や化粧品だって色んなものから選びたい。
それに友達にすぐに会えなくなるのは嫌だし、彼氏とも色んなところに出かけたいし、家族とはなるべく一緒にごはんを食べたいし、最期までそらくんと4匹のアカヒレの面倒を見たい。
それだけじゃなくて衛生面や治安だって心配だった。
だから知り合いからの「どう?このまま働かない?」に対しては、ありがたい話だけれど、しばらく待ってもらうことにした。
なんだかんだで恋しくなっているものの、どうしてもそこで生活をするとなると一歩踏み出せない自分がいた。
だってもしそのままラオスで働いたとして、その後はどうすればいいと思う?
日本の職場に戻ったらどんな仕事をする?そもそも仕事は見つかるの?家にお金は入れられる?あとは結婚も…。
田園都市線が私をラオスに連れて行った
それからあっという間に1週間が過ぎた。
早く返事を出さないとと思いながら、その日の私は田園都市線に揺られていた。
いつも通り、人が圧縮された田園都市線の急行。
乗り換えのために渋谷駅で降りて、そして一気に体が冷たくなったのを感じた。
閉めたはずのカバンが開いていて、お気に入りの恐竜のピンがついたCOACHの財布がなくなっていた。
カバンをひっくり返してもない、自分が立っていた位置を見ても何も落ちていない。
私がぼんやりと今後について考えている間に、財布はどこか知らないところに行ってしまった。
遊園地に行く途中だったから、お金もそれなりに入れていた。免許証もクレカもキャッシュカードも全部入ってる。神社で引いた大吉のお守りも。
失ったものは大きかったのに、警察に行ったその後に会った友達に「よくそんなに冷静でいられるね」って言われたほど、いやに落ち着いていた。
「だってもう泣いても喚いても戻ってこないんだもん」と返した。
そう、どんなに足掻いても大好きだった財布は戻ってこないのだ。
でもこれから対策をすることは出来る。
カバンは閉めていても前に抱える、財布はカバンの奥底にしまう、そして田園都市線には乗らない。
ラオス行きを決断したのは、ほんとに些細なことだった
田園都市線ユーザーになって6年が経過していたが、あの満員電車、イライラしている人、すぐに発生する遅延…など積み重なっていた色々な嫌な思いが、その一件で爆発し、私は本当に田園都市線が嫌いになった。
でも私の家の近くには田園都市線の駅しかない。
だから私はそれからすぐに、知り合いに「ラオスでお仕事がしたいです」と連絡した。
私の中では大きな”決断”だったけど、でもこんな小さなことで仕事も将来も決めてしまったのだから、日本に戻ってきたときから「また行きたい」って本当は思っていたのかもしれない。
綺麗なオフィスも快適な通勤もまぁいいや。お給料は副業かなんかでカバーしよう。
服や化粧品は日本にいる間に買い占めておけばいい。
友達や恋人、家族との時間が減るのは寂しいけど、ずっとラオスにいるわけじゃないし、何回か帰ってこられるし。
そして、ハムスターのそらくんと4匹のアカヒレの世話は、母が引き受けてくれることになった。
ケージの中で元気に動くそらくんをしばらく見られなくなるのは寂しいし、何より私が飼ったのだから最後まで自分でお世話をしたかった。
大きな心残りはその1つだけ。あとは全部解決策があるものだった。
決めるべきことがあまりにも大きなものだから、色んな言い訳を考えていただけのようにも感じる。
もしかしたら人生ってそういうことだらけなのかもしれない。
田園都市線で起こったあの出来事が、私の決断は間違っていないよと後押ししてくれたように思う。
今はラオスでの仕事に携わらせていただいてから半年が経つが、良い人たちと美味しいごはんに恵まれて、風をあびながらトゥクトゥクの振動に揺られ、快適な日々を過ごしている。
仕事もとてもやりがいがある。やりたかった広報の仕事もそうだし、大学時代に勉強していた英語も使えて、プロジェクトの担当にもなれた。
そらくんもアカヒレも母のおかげで元気に生きている。
この生活を教えてくれた知り合いにも、ラオス行きを手伝ってくれた家族にも感謝でいっぱいだ。
そしてまだ、財布も盗まれていない。
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