森木製菓

果たして社長になれるのか!?

或る日のジムにて

"リビドー"
あの瞬間にはまさにこの言葉が相応しかった。


近所のジムに入会をしたのは、1年前の春だった。
キッカケは夏に向けて良い身体を手に入れたいというありきたりな動機だったが、肉体がそんな短期間で変わるはずもなく、しかし始めたものは辞められず、いつ達成されるか分からない目標をぼんやりと目指し、週に1~2回ペースで今でも通い続けている。

そして彼女が現れたのは、半年ほど前のことだ。
僕が通っているジムの利用者は男性がほとんどで、数少ない女性はといえば軽くマシンを使ってから有酸素エリアで汗を流していることが多かった。
そんな中で、彼女はいつもフリーウエイトを黙々とこなしていた。
肉体もある程度仕上がっていたから、きっと初心者ではないことも分かった。
最初に気になった理由と言えばそれだけだ。
ただ珍しいから、それだけ。

しかしいつしか、僕は己の理想の肉体よりも彼女の姿を楽しみにジムに通っている自分がいることに気が付いた。
彼女がどのくらいのペースでジムに来ているかは分からない。
ただ僕が行くときは大抵フリーウエイトかマシンのエリアにいるから、きっとほとんど毎日トレーニングをしているのだろう。

初めて彼女を見てから半年以上が経つが、まだ誰とも交流をしている様を目にしたことが無い。
僕も他人とは積極的には関わらないタイプだから、そんな所に余計親近感が湧いていた。
別に仲良くなりたいワケではないが、しかし会釈をするくらいの関係にはなりたいと、最近はそんな淡い欲望を抱くようにもなっている。
けれどトレーニングエリアに入るとすぐさまワイヤレスイヤホンを装着する彼女と、コミュニケーションを取るのは至難の業だった。


ある日、そんな僕にもようやくチャンスが訪れた。
洗面所で手を洗っているときに、お手洗いから彼女が出てきたのだ。
このジムはお手洗いは男女別で用意されているが、洗面所は廊下に共用の物が1つあるのみだ。
僕はすぐにその場を退き、ジェスチャーで使用を促す。
彼女は軽く会釈をし、手を洗い始めた。

ペーパータオルで手を拭きながらどんな言葉を出そうか迷っていると、彼女は鏡越しに何かに気付き、すぐにその場を後にした。
追いかけるのもおかしいと思い、僕も鏡越しに彼女の様子を見ることにした。

彼女が向かった先にいたのは、1人の男性だ。
もう1年以上もジムに通っているから、なんとなくは分かる。
彼は不定期にジムを利用しており、特に上半身の強化に力を入れている。彼女と年も近そうだ。
あといつもタンクトップを着ている。
この少ないトレーニング回数でも身体が仕上がっているから、恐らくパーソナルトレーナーか何かで、普段は職場の器具で鍛えているのだろう。

彼女は彼に近付くと、歩くスピードを遅め、その音の変化に気付いた男性が視線を横へとやった。
それから一瞬の間の後に「今日はどの部位をやるの?」と問いかける。
初めて聞く彼女の声だ。
僕の距離でギリギリ聞こえるか聞こえないかくらいの声量である。
「背中と腕かな」と男性もまた小さい声で答え「もうトレーニング終わったの?」と続けた。
彼女は「まだ途中くらい」と返事をし、「じゃあね」と言ってトレーニングエリアへと戻った。

このまま合同トレーニングでもするのかと思っていたから、彼女の行動は意外だった。
安心したと同時に、あまりにもあっさりとした、しかしどこか緊張感のある交流に不安も覚えていた。
僕もまたトレーニングエリアへと移動し、いつものメニューをこなす。
反対側に置かれたマシンで彼女は黙々とリアデルトを行っている。
そしてその視線の先で、先ほどの男性がベントオーバーローイングをしていた。

彼女は自分のトレーニングに集中しつつも、インターバルの間には男性の姿をぼーっと眺めている。
ほとんど直線上にいるため、彼女がその男性に送る視線には僕以外の誰も気付いていなかったし、さらにもっと奥のスペースから僕が彼女を見ていることなんかは誰も知らないだろう。

確かにその男の背中は広く、フォームも美しかった。
レーニングをしては休憩を挟み、その間、男あるいは男の背中を眺めるという行為を繰り返す彼女。
しばらくして男がその視線に気付いたのか、彼女を見返した。


ほんの一瞬の出来事だった。
しかしその男の鋭い視線から、荒々しい欲望のようなものを感じた。
偶然かはたまた動揺を隠すためか、彼女はいつもよりもインターバルを短めに切り上げ、またトレーニングを始める。

それから彼女が男を見ることもなければ、男が彼女を視界に入れることもなかった。
そしてその視線のやり取りから20分ほどして、彼女はジムを後にした。
僕はいつものメニューなんてとっくに終えていたが、その男が気になって後日行うはずのトレーニングにも手を出していた。
男は新しい種目を始め、そして最初の休憩でスマートフォンを手に取った。
特に何の文字を打つわけでもなく、ただ画面を見て、すぐに出したばかりのダンベルを片付け始めた。
それから着替えもせずにジムウェアのまま、出口の方へと歩いて行った。